歴史を刻む工場の終焉。
日本の自動車産業を牽引してきた日産自動車が、再び大きな転換期を迎えている。近年の巨額赤字や競争激化を背景とした「Re:Nissan」計画の一環として、追浜工場の生産終了が決定された。2027年度末までに生産能力を削減し、経営効率を改善することが目的であった。
2001年の村山工場閉鎖は、カルロス・ゴーン氏による「日産リバイバルプラン」の一環。過剰な生産設備の問題を抱える、厳しい経営再建の道から日産は配置転換などを協議中という。両工場は地域の雇用と経済を支える「企業城下町」の中核として機能してきた。長年にわたり、多くの人々の生活に深刻な影響を及ぼし、関連企業や地域店舗にも波及した。追浜工場には約2400人の従業員がおり、その閉鎖は大きな問題となった。稼働率の低下が大きな要因である。一方、村山工場は閉鎖当時、日産全体の2万人以上の人員削減計画の中核を担い、多くの人々が職を去った。
私事にはなるが、実は前職で村山工場が閉鎖される数年前に、武蔵村山市で勤務した経験があった。実際に営業活動で工場内への入場を許可されたこともあり、工場に面する通称日産通りを毎日通勤していた。当時の工場正門前には常に最新のスカイラインが展示され、西側の本格的なテストコースは、高い壁と木々に囲まれ、まるで外界と隔絶された近寄りがたい雰囲気を漂わせていたのを覚えている。日産自動車のメイン工場の一つだった。
1962年にプリンス自動車工場として操業を開始した村山工場は、日産と合併後、グロリアやスカイラインといった名車だけでなく、ローレルやセフィーロなど、同社を代表する数々の人気車を生み出してきた。
その後、イオンモールむさし村山には一度訪れたことがあり、まさかこの場所がこのように変化するとはと驚いた。今、工場跡地を囲んでいた高い壁はほとんど取り壊され、隣接する狭い道路も拡幅されていて、広い歩道や車道を併設したフェンスからは敷地内が見渡せるように整備され、日産通り沿いにあった体育館なども、改装や新設を施したスポーツ施設として順次、地域住民に無料で開放されているようだ。
かつて日産が「企業城下町」として存在した場所は、形を変え、新たな広場として地域の人々に受け入れられているのではないか。多摩丘陵と昭和記念公園に挟まれた緑溢れるエリアで、工場が立ち並んだ風景が再び森で満たされるにはまだ時間がかかりそうである。
もちろん、工場跡地は再び工場を建てることもできる土地ではあるものの、この村山工場のケースは、一旦工場を閉鎖した場所を再び自然の環境に戻すという大胆かつ、SDGs的な活用法もありという示唆をしている。
実際に村山工場の変遷を通して見えてくるのは、グローバル競争の激化に伴い、企業が「地域との共存共栄」から「株主価値の最大化・グローバル最適化」へと意思決定の軸足を移すという、現代の構造的な変化が見て取れる。
跡地利用の明暗を分ける「立地」
しかし、両工場のその後を分ける大きな違いがある。それは、土地が持つ「立地」。内陸にあった村山工場の広大な跡地は、一部が多摩地区最大級の商業施設「イオンモールむさし村山」となり、残りの大部分は宗教施設に売却された。宗教団体は「一旦森に戻す」というユニークな活用を選び、地元自治体も敷地の一部を譲り受けて公共施設を建設するなど、時間をかけながら地域社会に新たな顔をもたらした。

一方、海に面した臨海型の追浜工場は、敷地内に港湾機能を持つという特徴があるため、工場団地として再利用しやすいというメリットがあった。防衛省が広島県呉市の日本製鉄瀬戸内製鉄所呉地区跡地を、西日本の保守・物流拠点として買収の基本的合意をしたように、追浜工場も東日本の拠点として一括買収される可能性も指摘される。すぐ近くに海上自衛隊や米軍の横須賀基地があることも、地元からの理解を得やすい要因だ。(ネットメディア編集長)










